大坪徹
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COLUMN

コラム「こんな人にはかなわない」

札幌で2012年から2014年に発⾏していたフリーマガジン「Madura(マドゥーラ)」に連載。

収載に際して、加筆修正を行っています。

白紙に戻してくれた人

vol.3 

この『マドゥーラ』が発行される頃には旧聞に属する出来事になっていると思うけれど…。3月の初め、札幌市内の市立中学校から学級編成で使う内部文書が、教師の管理の甘さから生徒や保護者に流出した。その内部文書は新年度からのクラス替えの基礎資料で、いくつかの項目を設け、そこに生徒を振り分けていた。この項目名がスゴイ。学級運営に口を挟む、いわゆるうるさ型の親を持つ生徒は「クレーム系」。周囲と打ち解けられなかったり、いじめに遭っている生徒は「障害」。同級生と喧嘩したことのある生徒は、なんと「反社会」ときたもんだ。僕は新聞の朝刊で知ったのだが、最初は冗談かと思った。確かにわかりやすい項目名だけれど、そのまんま過ぎ。生徒に対する愛情のかけらもない。

ただただ呆れながら記事を読んでいたが、次第に重苦しい気分になった。それは、一個人の過去の評価がシステマチックに受け継がれていくことの息苦しさだった。生徒の評価は進級するたびに担任から担任へと渡る。小学校から中学校、中学校から高校に進学するときも同様だ。同じ情報を次から次へと便宜的に伝えていく回覧板を連想させる。回覧板に綴じられた紙は閲覧済みの判でどんどん埋め尽くされていく。再起とか、再生という文字を書き込む余白もないくらいに。

自分のことで恐縮ですが。『圭子の夢は夜ひらく』風に言うと、♪わたしの小学6年生暗かった~♪。どうも僕は担任のT先生に嫌われているらしかった。「らしかった」というのは、一学期の終わり頃、クラスメイトに「おまえはT先生に嫌われている」と言われるまで気付かなかったからだ。その言葉は相当ショックだった。なぜだろう?いつからだろう?どんな嫌われ方をしてきたんだろう?

夏休みに入ってからも重い霞が身体の中に漂っていた。ある日、近所に金魚売りのおっちゃんがやって来て桶の中の赤い動きを見ていたとき、僕の中のもやもやが突然クリアになった。金魚事件だ!クラスで数匹の金魚を飼っていたのだが、ある朝、真っ黒になった水槽に金魚が浮いていた。誰かが墨汁を入れたのだ。担任のT先生は1時間目の授業を潰して犯人探しをはじめた。生徒一人ひとりに前日の下校時間を確認していった。一番遅く下校したのはY君だった。信じられないことだが、T先生は即座に「犯人はお前だな」とY君に言ったのだ。クラス中がざわめいた。確かにY君は悪戯好きの子だけれど、T先生の短絡的な犯人の決め方に疑問を感じて、思わず僕は「えーっ?!」と明らかに不満の声を出してしまった。「じゃあ、犯人は大坪か?」「僕じゃありません」「じゃあ、誰だ」」。僕は答えられなかった。T先生は無言で教室をひと回りして「まあいい、後にしよう」と言って、1時間目の授業を始めた。その後、この件についてクラスで話し合われる事はなかった。

僕が担任のT先生に嫌われていたとすれば、その発端は「金魚事件」以外に考えられなかった。どんな嫌われ方をしたかについてはやはり思い当たらなかったが、二学期に入ってから「これがそういう事なのか」と思える場面が数度あった。ただ、それは嫌われていると知った人間の思い過ごしかもしれない。どちらにしても僕の心は『圭子の夢は夜ひらく』状態が続いた。中学の入学式までは。

中学1年の担任はS先生だった。教室で初めて会ったとき、手ごわそうな先生だと思った。顔にしっかり厳格と書かれている。入学式の後、S先生は教室で「まず、みなさんに言っておきたい事があります」と言って話し出した。「みなさんの卒業した小学校から、一人ひとりを評価した資料が届いています。そこには成績や生活態度、性格などが書き込まれています」。その言葉を聞いて僕は愕然となった。僕を嫌っていたT先生の評価がS先生に伝わっている。その資料には悪い事が書かれているに違いない。僕はまた嫌われるのだろうか?息苦しさが僕を襲った。

でもその不快感は長くは続かなかった。S先生はこう続けたのだ。「先生はその資料を一度も見ないで、昨日、ストーヴにくべて燃やしました。だからこのクラスの誰が勉強ができて誰ができないのか知りません。生活態度の悪かった人や、問題を起こした人がこの中にいるのかどうかもわかりません。だから小学校までの事はすべて忘れてください。みなさんは今、同じスタートラインに立っています。これから頑張って勉強してください。みんなで仲よく楽しくやっていきましょう」。そのとき僕は、まぶしいほど真っ白い紙を手にしていた。

札幌市内の中学校で起きた内部資料流出事件。その新聞記事を読み終えたとき、僕はS先生の厳格な顔を思い出していた。今思えば「資料をストーヴにくべて燃やした」というのはS先生の優しい嘘だったのかもしれない。でもあのとき、S先生が僕を白紙に戻してくれなかったら、今とはちょっと違った人生を送っていたような気がする。そう思えるくらい、偉大な出会いだった。実際、S先生は色眼鏡など持たず、公正な目で忍耐強く、クラスのみんなを見つめてくれた。翌年の春、S先生が遠い街の中学校に赴任すると聞いたときは本当に残念だった。でも、もう大丈夫だった。僕は『圭子の夢は夜ひらく』状態から完全に解放されていた。

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