大坪徹
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COLUMN

コラム「こんな人にはかなわない」

札幌で2012年から2014年に発⾏していたフリーマガジン「Madura(マドゥーラ)」に連載。

収載に際して、加筆修正を行っています。

嗚呼、勘違いの人

vol.4

生まれてこの方、何の疑いもなく信じてきたことが「勘違いである」と気付いたり、他人に指摘されたときのショックは相当なものある。自慢ではないが、僕はこの手の「勘違い」の天才である。「兎追いし彼の山」で始まる「ふるさと」という唱歌。僕はずっと「兎美味し彼の山」だと思い込んでいた。小学生のとき「兎ってそんなに旨いんだろうか?醤油とかかけて食べるのかなあ」なーんて思いながら歌っていた。

恥の上塗りで、もう一つ。学生のとき飲み屋で友人たちとたわいもない文学論を交わしていた。一人がさも持論のように雄弁に語っている。ある文芸評論家の解釈であることがわかっていたので、僕は悠然とこう切り返した。「受け売り話は興ざめしちゃうんだよな」。その言葉を聞いて友人たちがキョトンとしている。その中の一人が恐る恐る僕に尋ねた。「コウザメって、キョウザメのことか?」。顔から火が出た。「おまえのコウザメで興ざめしたじゃないか!」。その夜、僕は「おい、コウザメ!」と呼ばれ続け、泥酔したのは言うまでもない。

こういった勘違いを幾度となくやらかしてきた僕だけれど、その逆もある。相手が勘違いをしていることに気付いた場合だ。それを相手に伝えるかどうか、これは難しい。勘違いを指摘すれば相手は少なからず傷つくことになるし、伝えなければ相手はその後も恥をかき続けることになるからだ。

Cちゃんは小学校から中学校までの同級生だ。二十歳を過ぎた頃、広い東京で奇しくも出会った。それ以来、東京にいる同郷の連中が集まるとき、彼女も参加するようになった。ある日、Cちゃんから電話があった。就職が決まり職場に近いアパートを探したいので付き合ってくれないかと言う。一緒にいくつかの物件を見てまわった後、喫茶店に入った。このとき彼女の“この世のものとは思えない思い込み”を知ることになるのである。

見てまわった物件について、お互いに感想を言い合っていたときだった。「あのアパートは東向きだから朝日が入らないね」。僕は聞き間違えだと思い「えっ?」と問い返した。「朝日の入る部屋がいいのよ」と彼女。「東向きだから朝日は入るよ」と僕。そして彼女は真顔で僕を哀れむようにこう言ったのだ。「ツボクン、太陽は西から昇るのよ」。その瞬間、僕の中で地球が逆回転をはじめた。明日が昨日になり、未来は過去となり、老人が成長して赤ん坊になった。僕はCちゃんに顔を近づけ、小さな声で言った。「ねえ、Cちゃん。驚かないで聞いてほしいんだけど。太陽はね、東から昇るんだよ。これはまぎれもない真実なんだ」。それを聞いて、彼女は僕にとどめを刺した。「だって『天才バカボン』でそう言ってたもん!」。頭の中で懐かしいアニメソングが流れた…♪西から昇ったおひさまが東へ沈む~♪。

Nさんは僕の上司だった。お酒を飲まない人は別なことにお金を贅沢に使うことが多いけれど、Nさんの場合は珈琲だった。当然、豆の種類や挽き方、淹れ方、飲み方、器(彼はマイセンをこよなく愛した)に一家言を持っており、そのこだわり方は尋常ではなかった。ある日、ランチを一緒にとることになり、その後のお茶に誘われた。ピアノのように黒光りするカウンターに間接照明の淡い明かりが映り込んでいる。初老のマスターの背後には高そうな器が並んでいた。「ぜひ飲んでほしい珈琲があんだけど、それでいい?」とNさんが聞いてきたので僕は了解した。「タンカバイセン、ふたつね」。初めて聞く言葉だった。「バイセン」は「焙煎」だろうと想像できた。「タンカ」とはどんな字を書くのだろう。単価、担荷、短歌…どれもピンとこない。手元にあるメニューを見て合点がいった。そこには「炭火焙煎珈琲」と書かれていた。Nさんは「スミビ」を「タンカ」と読み間違えていたのだ。その誤りを伝えることは、とうていできなかった。

僕はCちゃんの思い込みを指摘したけれど、Nさんの読み違いには黙っていた。この差は何だろう。相手と自分の関係や距離感が大きく影響していることは間違いない。Cちゃんは同級生で、Nさんは上司だ。言いやすさが違う。でも、それだけじゃないように思う。Cちゃんの場合、彼女の傷は浅いと思った。こういうことに頓着しない子だったから。Nさんのときは、本当のことを言う覚悟ができなかったのだと思う。珈琲をこよなく愛するNさんが、インスタントコーヒーで充分と思っている人間に正されたときの傷の深さは相当なものであり、それに対処する自信が僕にはなかった。

他人の勘違いを指摘するときは、それによって相手が受ける傷の度合いを推し量り、その傷を癒す力が自分にあるかどうかを問う必要があるのではないだろうか。たかが勘違いでしょ、そんなに重く考えなくてもいいじゃないか、という人もいるかもしれない。でも正しいことを言うときは、それなりの覚悟がいると僕は思う。これは勘違いで数々の軽傷、重傷をおってきた人間の見解であります、はい。ここでふと不思議に思ったのは「タンカバイセン、ふたつね」と注文を受けて、黙って炭火焙煎珈琲を出したマスター。彼の心の内はわからないが、店の味を愛してくれていればそれでいいと思っていたのかもしれない。

僕はいま、この文章をコンピューターのワープロ機能を使って書いている。前文に「奇しくも」という言葉を使ったけれど、このときキーを叩いても「奇しくも」が出てこない。変だなあと思って辞書を調べてみたら「クシクモ」でした。僕はずっと「キシクモ」だと思っていた。やれやれである。

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