鈴を埋めた人
vol.8
毎朝のことだが、「ドン!」という音で目覚める。布団の中でグズグズしていると、また寝室のドアを叩く音。開けると、シッポをちぎれんばかりに激しく振りながら、「早く散歩に行こう!」と目で訴えている愛犬エルがいる。朝の散歩は僕の役割だ。雨の日も雪の日も、二日酔いの日も、容赦なく前足ノックで起こされる。散歩コースはもっぱら近くの公園。高台にある野球場を一周して、札幌市街を見渡せる丘へ。ここで一人と一匹はおもむろに腰を下ろし、10分ほどのまったりとした時間を過ごす。それからボート池に寄って帰宅するのである。もう13年間も続けてきたお決まり30分コースだ。
その朝も僕とエルは野球場をぐるりと廻った後、札幌市街を見渡せる丘でまったりとしていた。よく晴れた日で、涼しい風が心地よかった。「気持ちいいね、もう少しここにいような」とエルに話しかけていたら、背後から「エルちゃん」と声がした。振り返ると、チャコママがニコニコしながら立っていた。
公園はペットと飼い主の社交場である。犬同士の気が合えば、初対面でも立ち話をすることがある。その場合、飼い主の名字を確認することはほとんどないが、犬の名前を尋ねたり、尋ねられたりすることは多い。ほどよい距離を保ちながら、顔見知りになるための作法とでも言おうか。飼い主を呼ぶ際は<犬の名前+ママ(パパ)>になる。僕の場合、この公園では<エルちゃんパパ>で通っている。チャコママ(犬の名前はチャコね)も、出会えば立ち話をする飼い主仲間の一人だった。「だった」というのは、もう4年近く出会っていなかったからだ。
チャコとチャコママに初めて出会ったのは、13年前。エルの公園デビューの日だった。札幌市街を見渡せる丘でまったりしていると、「あら、かわいいこと。お名前は?」とチャコママから話しかけてくれたのだ。話しているうちに、エルと同じくチャコも札幌市の動物管理センターから貰ってきた犬であることがわかった。両犬とも雑種で中型犬。共通点が多く、親近感が湧いた。その後も出会えば、ペットフードはどこのメーカーがいいとか、あそこの動物病院は良くないとか、躾の仕方とか、犬に関する情報交換をした。そのチャコとチャコママが公園から急に姿を消し、そして今、久しぶりにチャコママと出会ったのだった。しかし、傍らにチャコはいなかった。
「エルちゃん、元気そうね。ちょっと太ったかな?」とエルを撫でながら話しかけているチャコママ。その背中に向かって、「久しぶりですね」と僕は言った。続けて「チャコは?」と言いそうになって、その言葉を呑み込んだ。言ってはいけない気配があった。エルを撫でながら彼女が口を開いた。「チャコね、交通事故でね」。まるで僕が呑み込んだ言葉が聞こえていたかのようだった。
彼女の話はこうである。4年ほど前、散歩に出ようとしたら忘れものに気付いた。リードを玄関の手すりに軽く結んで家に入ったら、「キーッ!」という鋭いブレーキ音が聞こえ、慌てて外に出たらチャコが道に横たわっていた。「主人は次を飼うなら早い方がいいって。動物管理センターやペットショップにも何度か行ったんだけど。やっぱり、だめなんだよね。チャコなんだよね」。僕とエルは黙って聞いていた。「家族が死んで、代わりになる家族なんていないよね」。僕は慰めの言葉が見つからなかった。でもエルは違った。撫でている彼女の手をペロペロと舐めはじめた。まるで彼女をいたわるように。
一陣の爽やかな風が丘を通り抜けた。チャコママは立ち上がり、バッグの中から何かを取り出して僕に見せた。それはチャコがいつも首輪に付けていた鈴だった。「チャコもこの丘が好きだったから。この鈴、ここに埋めようと思って」。ご主人の転勤で札幌を離れることになったという。この公園に来るとチャコのことを思い出すからずっと近寄らないようにしていたが、今日は最後と思って来たという。丘の上に立つ大木の根元に鈴を埋めると、彼女はパンパンと音を立てて手に付いた土を払い「これでよし!」と言った。「今日、エルちゃんと会えて嬉しかったよ。元気でね。バイバイ」。僕とエルは丘を下っていくチャコママを見送った。その後ろ姿に重く悲しい気配はなかった。彼女は鈴といっしょに何かを埋めたのかもしれない。新しい街で、新しい家族ができるといいなと思った。