大坪徹
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COLUMN

コラム「こんな人にはかなわない」

札幌で2012年から2014年に発⾏していたフリーマガジン「Madura(マドゥーラ)」に連載。

収載に際して、加筆修正を行っています。

バカ息子を持った人

vol.9 最終回

車は道道37号線を旭川北インターチェンジに向かって走っていた。僕が運転し、助手席には父がいた。すでに引退していたが、かつて父はタクシー会社を経営しており、運転に関してはうるさかった。ハンドルはしっかり両手で持てだの、ブレーキのタイミングが遅いだの、先ほどからやたらと僕の運転に注文をつけてくる。いつものことである。その父が急に黙り込んだ。横目でチラッとみると、指先をじっと見つめている。そして、僕にこう言ったのだ。「ところでお宅さん、名前はなんていうの?」。

父は認知症を患っていた。その日は母の介護疲れを癒す意味もあって、動物好きの父を旭山動物園に連れ出し、その帰り道だった。あちこち歩いたので、疲れたのかもしれない。体調が良くないと急に発症するのだ。思いもよらなかった父の問いかけに、僕はなるべく平静を装って答えた。「トオルといいます」。他人行儀な話し方になっている自分が可笑しかった。「トオルさんか、うちのバカ息子と同じ名前だねえ」。バカ息子!吹き出しそうになったのを懸命にこらえた。認知症絶好調中の父には申し訳ないが、ちょっとカマをかけてみた。僕としてもバカと言われては放って置けないし、その真意を知りたい。「息子さん、バカなんですか」。僕はできる限りの真面目な口調で訊ねた。「まだまだだねえ、あれは」とため息をつきながら言った。本心でダメな奴だと思っているらしい。「そうですか、まだまだですか」。僕は「やれやれ」と心の中でつぶやいた。その後も子どもは何人いるの?どこに住んでいるの?と訊ねてきたが、隣りで運転しているトオルさんがバカ息子本人であることに気付くと父がさらに混乱すると思い、適当にはぐらかした。やがて父はイビキをかきながら眠った。

車は旭川北インターチェンジから、高速道路に入った。雨粒がフロントガラスを濡らしはじめた。隣りには眠っている父がいる。遠い昔の、ある情景を思い出した。あのときも車の中だった。運転席に父がいて、助手席には18歳の僕がいた。東京の大学へ行くために実家を離れる日だった。車は滝川駅に向かっていた。雨粒をはじくワイパーの先に駅舎が見えたところで父は車を止め、フロントガラスを見つめながらこう言った。「この先、いろんな人と出会うと思うけど、相手がどんな人でもちゃんと話を聞きなさい。身分とか地位に左右されない、公平な耳を持ちなさい」。

父が僕に人生訓らしきことを言ったのは、後にも先にもこの時だけである。いま思えば、父と一緒に暮らした最後の瞬間でもあった。僕はそのまま東京で就職し、家庭を持った。四十歳手前で北海道に戻ってからも滝川と札幌で別々に暮らし、たまにこうして様子を見に帰ってくるだけである。父と母が結婚して、姉と僕が生まれ、やがて子どもたちはそれぞれ家を離れていった。一生の間で家族みんなが一緒にいられる時間って、なんて短いのだろう。

父の症状は日を追うごとに悪化していた。自分の息子をトオルさんではなく、バカ息子として接してくれる時間がどんどん短くなっていく。「まだまだだねえ、あれは」…もっと長く一緒に暮らしていれば、父はもっと多くのことを僕に教えてくれただろうか。

いつのまにか雨はやみ、西の空に美しい夕焼けが広がっていた。濃い茜色が眠る父の顔を照らしている。滝川インターチェンジで高速道路を下り、国道38号線に入る。「おい、もっとスピードを上げろ」「起きてたの?」「制限速度を超えていても流れに乗った方がいい。後続車に追い越しさせる方が危険だ」。ひと眠りしたせいか、父は現実の世界に復帰していた。「今日、札幌に帰るのか?」と父。「そうだな。もう一晩、泊まっていくかな」と僕は答えた。それから一年半後、父は他界した。今は母が一人で暮らしている。顔を見せれば喜んでくれるとわかっているのに、忙しさにかまけてなかなか実家に帰れないでいる。バカ息子は、相変わらずバカ息子のままである。

『マドゥーラ』の創刊準備号から「こんな人にはかなわない」を執筆させていただいて、ちょうど10回目。今回のコラムが最後となりました。過去の小さな記憶や日々のとりとめない出来事を書き続けているうちに「読者の方々は楽しんでくれているのかなあ」という不安に襲われ、幾度か連載を断ろうと思ったこともありました。そんなときに書く力をくれたのは、読者の皆さんからの真摯な感想や心ある言葉の数々でした。感謝に堪えません。またコラム連載にあたっては、原稿締め切りが過ぎても我慢強く待っていただいき、ときには叱咤激励してくれた編集スタッフのみなさんに大変お世話になりました。この場をかりて、お礼申しあげます。ありがとうございました。

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