モツ煮込を作ってくれた人
vol.7
僕は自他ともに認める“酒飲み”であります。飲みの誘いはほとんど断らないし、まっすぐ家に帰っても必ず晩酌。よほど体調が悪くない限り、ほぼ毎日飲んでいる。初めてアルコールを口にしたのは高校三年生の冬だった(もう時効ですよね)。受験勉強を終えて床についたけれどなかなか寝付けず、居間から父親のサントリーオールドを少しだけくすねた。黄金の液体を恐る恐る口に含み、思い切って飲み込む。喉から食道へ、さらに胃へとマグマが走り抜けた。内蔵が火事!咄嗟に窓を開けてツララを口に含んだら、あらら?なんか美味しい!口に残っていたウイスキーとツララがオンザロック状態になり、まろやかな甘みが…。以来四十年間、僕とお酒の濃密なお付き合いが続くのである。
これまで僕は酒にいくら費やしてきたのだろう?ざっと計算してみた。いやはや、そこそこの家が一軒建つではありませんか。自分でも呆れ返るけれど、もったいないとは思わない。僕にとって飲み代は療養費であり、授業料なのだ。気が置けない人と飲む酒は旨い。「真理ちゃんが水田君と結婚したら、ミズタマリ」とか「麻希ちゃんが原君と結婚したらハラマキ」とか、そんなたわいもないやり取りやばか話をしているだけで、心の中でグシャグシャに絡み合っていた糸がほどけていく。飲み代は心の療養費なのだ。そして、授業料。僕は酒の場を通して、どれほど多くのことを学び、教わったことか。
その日は僕の二十歳の誕生日だった。東京郊外の、私鉄駅近くのアパートで「今日から堂々と酒が飲めるんだなあ」なんて思っていたら、なぜか突然「常連」という言葉が頭に浮かんだ。なんて怪しげで大人っぽい響きなんだろう。そうだ!二十歳の祝いに常連になろう!そのためには行きつけの店が必要である。アパートと駅の間に、以前から気になっていた居酒屋があった。前を通るといつも焼き魚のいいニオイがした。
その夜、早速店の暖簾をくぐった。コの字型のカウンターだけの小さな店だった。店主は四十歳代の半ばといったところか。客からテッサンと呼ばれていた。角刈りで眼光が鋭く、太い腕を持ち、必要なこと以外は話さない。一時間ほどで店を出る。肴は旨かったが、あの無愛想は相当なものだ。二度目、三度目も同じだった。僕に向けられた言葉は来店時の「らっしゃい」と帰り際の「どうもね」だけである。四度目のとき、初めて声を掛けられた。「この近く?」「はい」「学生さん?」「はい」。それからテッサンは注文もしていないモツ煮込を黙って僕の前に置いた。その瞬間から僕は「常連」の世界に足を踏み入れた。
店に通いはじめて半年が経った頃、僕はテッサンや常連客から「ツボちゃん」と呼ばれていた。客はサラリーマンやスーパーの店長、ご隠居さん、大工職人、パイロットなど多種多様。誰もがテッサンの無愛想だが実直な人柄を愛し、料理人としての腕に惚れ込んで夜な夜な集まってくる。コの字型のカウンターは社会的地位とか、年齢差とか、タテの関係をヨコ並びにしてくれた。しかし、Yという常連だけは違っていた。不動産屋の息子で、酒癖が悪く横柄なところがあった。
ある日、閉店間際にYが入って来た。かなり酔っている。席はいっぱい空いているのにわざわざ僕の隣りに座った。「あんた、俺のこと嫌いだろう。前からそう思ってた。俺を見る目でわかるんだよ」「そんなことないです」「うっせえ、黙って聞いてろ。学生の分際で親のスネかじって酒飲みやがって…」としつこく絡んでくる。数人いた客は、ひとりふたりと徐々に店を出て行った。テッサンが「おまえも早く帰れ」と僕に目で合図する。僕が立ち上がると「人が話してるのに帰るのか?この○○○野郎!」。その差別的な言葉を聞いて堪忍袋の緒が切れた。「外で話そう、表に出ろ」と言って、僕は立ち上がろうとした。その瞬間、カウンターの中から太い腕が伸びてきて肩をつかまれ、僕はあっけなく席に座らされていた。テッサンがYに向かって言った。「もういいじゃないですか。今日は帰って」。Yはモゴモゴ言いながら店を出た。テッサンはカウンターを出て暖簾を外し、僕の隣りに座った。「ツボちゃんよ。おまえ、何様だ。表に出ろとは何だ。ここは俺の店だ。客を出す出さないは俺が決める。おまえが吐く言葉じゃない。いいか、どんなことがあっても今後一切、そんな言葉は使うな。いつかおまえの身を滅ぼすぞ。ここにはしばらく来るな」。
そんなことがあってから一カ月が過ぎていた。僕が風邪をひいて寝込んでいると、アパートのドアを叩く音がした。大家のSさんだった。Sさんもテッサンの店の常連である。「風邪で寝込んでるって言ったら、テッサンがこれ持ってけって」。それはどんぶりに入ったモツ煮込だった。「これ食って元気になったら、また店に来いって」。そしてSさんは帰り際にこう言った。「そういえば、Yさん、出入禁止になったらしい」。僕はモツ煮込を食べた。旨かった。涙が止まらなかった。