大坪徹
事務所

ESSAY

「O.tone」への記事執筆

「O.tone(オトン)」(あるた出版)は、おやぢ世代(40~60代)からの情報を元に構成される、札幌を楽しむための情報誌。

煙るカウンターに救われる

その日、どこで酒を呑むか。何気なく店を選んでいるようで、一緒に呑む相手との距離感とか、心の状態などを無意識のうちに推しはかっているような気がする。お互いに共有しているうれしさを酒の力で2倍にも3倍にもしたいときは、居酒屋や焼肉屋がいい。心の襞がちょっとかさかさしているときは、美人で陽気な女将のいる小料理屋がしっくりくる。人間と時間、そして空間。それぞれの「間」がうまく符合するように、バランスを考えながら店を選んでいるように思う。

気持ちがやや弱っているなと感じるときは焼鳥屋だ。できればカウンターの隅の、煙で霞んでいる焼き場の近くがいい。駆け出しのコピーライターの頃、上司に初めて焼鳥屋に連れて行ってもらった。そのとき以来、焼鳥屋は僕の逃げ場所になっている。

学生の頃は、焼鳥屋に行ったことはなかった。興味はかなりあったが、恐ろしかった。一度、飲屋街を歩いているといいニオイがしてくるので、暖簾の間から店の中を覗いてみた。見事におやぢばかりで、異様に静か。聞こえてくるのは、パチッパチッという炭が焼ける音と、競馬の配当結果を知らせるラジオの音だけ。立ち込める煙の中に身を隠して、大人たちが怪しい時間の中を漂っている。「しょんべん臭いガキはお断り」という張り紙を突きつけられたような気がして、中には入らずにそそくさと立ち去った。

僕は23歳で広告代理店に入社した。初めて焼鳥屋に連れて行ってくれたのはディレクターのMさんである。その日、僕は仕事で大失態を演じた。初めてのプレゼンテーションだった。言うべきことは、前日までにすべて暗記していた。当日の社内リハーサルもスムーズにできた。でもクライアントが続々と会議室に入ってくるにつれて、僕の心臓は高鳴り出した。いきなり新商品の名前を言い間違えた。すぐに気づいて言い直そうとしたが、それより早く担当営業がミスを謝り、訂正した。それが引き金になって、暗記していた言葉はみるみる消えてゆき、頭の中が真っ白になった。帰り道、みんなが黙り込み重い空気に包まれた。電車の窓から見える夕陽がまぶしかった。会社の最寄り駅に着いたとき、Mさんが口を開いた。「今日はここで解散しようや。みんなお疲れ」。そして、Mさんは無言で僕の袖を軽く引っ張った。

まだ外は明るいというのに店は混んでいた。Mさんは冷や酒を注文し、訳のわからない言葉を発した。「トリトカワ、タレデ、ナンコツ、シオ」。隠語を聞いているようだった。焼き鳥が運ばれてくると、Mさんは旨そうに肉をほおばりながら口を開いた。「俺なんか、デザインカンプ忘れたから。プレゼンで」。若い頃の失敗談を自慢げに話し出した。僕はその話をぐい飲みの底を見つめながら黙って聞いていた。もうもうと立ち込める煙が僕とMさんだけを包んでいた。気持ちが少しずつ緩んでいくのがわかった。Mさんの心遣いがうれしかった。目頭が熱くなり、慌てておしぼりで顔を拭いた。ちらっと隣のMさんを見ると、焼き場に目をやりながら冷や酒をあおっている。向き合わずに済むカウンターが有り難かった。

あれから30年以上が過ぎた。東京から札幌へと場所は変わったけれど、焼鳥屋通いは続いている。最近は同じ業界の、若い人たちと行くことが多くなった。とくに相手に元気がないときは焼鳥屋と決めている。重みのある粒子を含んだ煙が固有の空間を作ってくれる。カウンターは上司と部下、先輩と後輩というタテの並びをヨコにしてくれる。お互いの肩の力が抜けるのがいい。とかなんとか、わかったようなことを言っているが、何のことはない。Mさんが僕にしてくれたことと同じことをしているだけなのだった。

※「O.tone(オトン)」2011年6月号に掲載。 収載に際して、加筆修正を行っています。

«

エッセイの一覧へ

トップページへ