大坪徹
事務所

ESSAY

「O.CAN」への記事執筆

「O.CAN(オキャン)」(あるた出版)は、札幌の35歳以上の女性がナビゲートするリアル情報マガジン。現在は休刊。

物書きになりたかった
イングリッド・バーグマン

「天は二物を与えず」という諺があるが、一物だけでも自分の才能に気づいて開花させた人は幸せだと思う。目上の者は若い人の小さな輝きを見出し、それを育てていく役割を担っているのである。昔、そう思うことがあった。

20年ほど前になるだろうか。その頃、僕は代官山でフリーのコピーライターをしていた。バブル経済がはじける前で殺人的な忙しさだった。横浜の自宅に帰れるのは一週間に一度くらい。配偶者には「母子家庭だ」と責められ、まだ幼かった子どもには「また遊びに来てね」と言われる始末。

どうにもならなくなり、アシスタントを雇うことにした。同業の知人数人に声をかけて捜してもらっていたところ、一本の電話が入った。「コピーライターの経験はないけど、会ってみる?文章には興味あるらしいよ」。僕は会うことにした。資料探し、届けもの、電話番、グチの聞き役…やってもらうことはいっぱいある。

面接の日、約束の時間になっても彼女は現れなかった。30分ほど過ぎて電話がかかってきた。「すいません。道に迷ったみたいで」。代官山は古い街なので道が入り組んでいて住所だけを頼りに来るのは難しい。現在地の様子を尋ねると近いところまで来ていることがわかった。「迎えに行くから」と言ったのだが「自分で行きます。道順を教えてください」と言う。

彼女がオフィスのドアチャイムを鳴らしたのは、それから1時間後のことである。真夏の代官山をあちこち歩き回ったのだろう。息は荒く、ブラウスは汗でビッショリだった。このとき僕は気づくべきだったのだ。彼女の中に潜む危うさに。

E子は僕のアシスタントになった。面接に1時間半遅れたにしろ、人を頼らず自力で辿り着こうとする気構えに僕は賭けた。というか白状するが、彼女は美しかった。はっきりした二重瞼にブラウンの瞳、顔の中央に形のいい鼻がツンと置かれていた。広告代理店のディレクターが彼女を初めて見て「イングリッド・バーグマンに似てる」とささやいたのを覚えている。

最初にE子が頭角?をあらわしたのは、ふた月ほどたった頃だと思う。彼女の就業時間は午前10時から午後6時まで。残業はさせないと決めていた。一人になり集中して仕事をする時間が僕には必要だった。その日は外での打ち合わせが長引き、オフィスに戻ったのは午後9時過ぎ。当然、E子は退社しているものと思っていた。中に入ると、彼女がいた。

デスクの上には空のビール缶が何本も並んでいる。帰ったら飲もうと買っておいた、僕のビールだ。「どうしたの?」と訊くと、彼女は缶ビールを持ち上げながら言った。「なんか暑かったし、△*&#%…乾杯!」。完全に出来上がっていた。肉体と精神がギクシャクして、自分でも思いもよらぬ行動に出ることは誰にだってある。とはいうものの、僕は彼女の中の危うさを感じざるを得なかった。

詳細は差し控えるけど、その後、E子は様々な面倒を起こした。半年の間に僕から2度の解雇通告を受け、その度に「頑張ります。チャンスをください」と懇願した。僕は2度、彼女の再起に賭けた。というか、また白状するけれど、彼女は美しかった。

同潤会代官山アパートの桜が散り始めた頃、E子はむき出しの一升瓶をぶら下げて出勤してきた。「お世話になりました。今日で辞めます」と言って、当時僕が愛飲していた「玉乃光」を差し出した。退職の理由を彼女は言わなかったし、僕も尋ねることはしなかった。

E子が辞めてからしばらく経って、彼女が使っていたデスクの引き出しを整理していると、覚えのないタイトルのフロッピーディスクが出てきた。開いてみると、小説らしきものが書かれている。彼女が暇をみながらオフィスで書いていたものらしい。甘い恋愛ものだったが、なかなかと思わせる描写があった。「書きたかったんだな」と思った。僕はダメ上司だったのかもしれない。彼女の中の輝きを見出してやることができなかった。いや見出そうともしなかった。

昨年、東京出張の際に昔の仕事仲間に会った。ごく最近、渋谷でE子を見かけたという。「間違いないよ。相変わらずイングリッド・バーグマンだったぜ」。僕は彼の話を聞きながら、パソコンに向かって文章を作っているE子を想っていた。

※「O.CAN(オキャン)」2009年4月号に掲載。収載に際して、加筆修正を行っています。

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